ネパール Nepal

 

ネパールは、南北をインドと中国という二つの大国に挟まれた日本の3分の1ほどの小国です。北はヒマラヤ山脈、南はタライ平原が広がり、標高5000mを越える高地から亜熱帯の低地まで気候も様々で、100を越える民族が共存しています。世界で唯一ヒンドゥー教を国教とする国でしたが、仏陀の生誕地であるルンビニ付近では仏教も盛んです。ネパールと言えばトレッキングや観光地として有名ですが、近代化の波に押された民主化運動により長く続いた王政が廃止され、今まさに、ネパールに新たな時代がやってこようとしています。しかし同時に、長く差別を受けてきた少数民族の独立を求める動きの高まりや国内に大きな支配力をもつマオイストの抵抗により緊張状態が続き、王族の権力をめぐる争いや隣国の圧力など様々な勢力が複雑に絡み合うなど新政誕生に至るまで、数多くの問題が残っています。

 

ネパールの王族

北部のヒマラヤ山脈地帯は今でも車道が通っていないほど厳しい地形だが、豊穣な土地と温暖な気候に恵まれたカトマンズ盆地は常に支配者が求める理想の場所だった。13世紀、仏教徒であるネワール人のマッラ王朝が誕生し、500年の繁栄をもたらした。彼らは多くの文化と技術をもっており、現在観光地として有名な建築物は、ほとんど彼らの時代に作られたものだ。マッラ王朝の後には、現在の王族の祖先であるシャハ王家によりゴルカ王国が誕生する。シャハ王家は一族内での権力争いが絶えなかったが、1846年の「コト・パルバ虐殺事件」により権力を握ったジャンガ将軍が王族の子孫であるラナ姓を名乗り独裁政治を行うと、以後ラナ一族内での権力争いが始まる。多くの支配者と同じように、彼らもヒンドゥー教を統一の象徴とし、人々は多くの少数民族を格付けした複雑なカーストにより統治された。

1930年代になると一部のエリート層からラナ独裁政治打倒運動が起こるが、最大政党であるネパール会議派と国王によるクーデター計画が事前に発覚、トリバブン国王がインドに亡命したことを契機としてインド政府が介入し、事実上国王の独裁政治が復活する。以後現在に至るまで、ネパールではインド外交が重要な鍵を握ることになる。ネパール会議派の独裁政治への非難が高まりを受けて行われた1959年の最初の総選挙は、ネパール会議派の圧勝に終わったが、不平等な富の分配制度を改善しようとした政府に対し、マヘンドラ国王は1960年に軍を使ってクーデターを起こす。新憲法を公布したマヘンドラ国王は「パンチャーヤト制度」を導入する。憲法には、「ネパールの主権は国王にあり、行政、立法、司法の全権は国王から生じて国王により行使される」とある。マヘンドラ国王は自分の地位を高めるためにヒンドゥー教を利用し、ネパール会議派を潰すために中国との関係を強化し国民に反インド感情を植えつけた。ネパール会議派へ対抗するためにコミュニストには寛容だったため、この時期に共産主義思想がネパール国内に広がっていく。

マヘンドラ国王死後、1972年に国王となったビレンドラは、先進国で民主的な教育を受けたにもかかわらず、国王の権力を強化した。独裁政治を続けている国王政権はスキャンダルが絶えず、1990年、共産党系政党とネパール会議派政党のあいだで共闘が始まり、民主化運動が起こる。国民からの圧力も受けた国王はようやくパンチャーヤト制をあきらめ、暫定内閣の下で新憲法が公布された。当初内閣が草案した民主的な憲法案は国王に突き返され、ヒンドゥー教を国教とすることや国王が非常時の強い権限を持つなど、いくつか非民主的な内容を残した憲法が公布される。この憲法を不服として、1996年マオイストは人民戦争を開始する。

 

マオイスト

1996年2月に人民戦争を開始したマオイストの第一の要求は、新憲法を国民の手で制定するための制憲議会選挙を開くことだった。マオイストの誕生は、1950年代ネパール会議派の支持者だったモハン・ビクラムが、投獄された刑務所で共産主義思想に染まったことに遡る。彼に出会ったバルマン・ブラ・マガルという一人の青年が、現在マオイストの首都でもあるタバン村をマオイストの村にした。タバン村にはモンゴル系のマガル族が住んでいる。彼らはネパール人口の7%を占め、独自の言葉を話す。後世カーストに組み込まれたが、もともとヒンドゥー教徒でない彼らは、身分・男女間の差別が少ない。また厳しい山岳地方で生き残るために、彼らは昔から協同生活を営んでいた。こうした彼らの習慣が、共産主義思想の受け入れを容易にしたのかもしれない。マオイストたちは農村を組織化し、農民たちを強制的に組織に組み込んだ。学校のない村に自分たちの手で小学校を作り、独自の思想で村人たちに様々な教育を受けさせ、やがて学校を中心に村は一つの共同体となった。

2001年6月1日、当時のビレンドラ国王一家を含む王族10人の殺害事件が起こる。ナラヤンヒティ王宮事件と呼ばれるこの事件は、王族の定例晩餐会で皇太子ディペンドラが銃を発砲したという内容だ。皇太子は現場の外で頭に銃弾を撃ち込まれた状態で発見された。最終的には皇太子が国王夫妻を撃ち殺し自殺したという発表がされたが、突然晩餐会を欠席し、事件後王位を獲得したビレンドラ国王の弟(現国王)ギャネンドラに多くの疑惑の声が寄せられている。この事件は、以前からネパールの民主化に強く反発していたギャネンドラ国王に対する国民の反発を一層強いものとした。

マオイストはこの事件を利用し、インドがネパールを属国にするため、民主化を目指すマオイストに寛容だったビレンドラ国王を、ギャネンドラを通じて消し去ったという陰謀説を打ち出し、国王や、王族に対して何の手出しもできない首相への反対キャンペーンを開始した。次々に人々を取り込むマオイストの脅威に押されたコイララ首相はついに辞任を決意し、デウバ新首相の下に停戦が宣言された。停戦の間にマオイストは組織の整備、武器の拡充を進め、一気に勢力を拡大した。しかし9.11を契機に反テロリストの機運が高まると、マオイストの支持も急激に落ち込み、和平交渉は決裂。再び襲撃を開始したマオイストに対し政府は非常事態宣言を発令し、王室ネパール軍を全面展開した。これにより人民戦争は激しさを増し、多くの犠牲と国内避難民を生み出すこととなった。

マオイストの徹底した執拗なゲリラ攻撃は軍を疲弊させ、徐々にその勢力範囲を伸ばしていった。国王とマオイストに政治勢力が集中する一方、選挙で選ばれた政府はほとんど力をもたず、2002年5月に下院が解散された後は治安悪化のため選挙も実施されずに議会不在が4年間も続くこととなる。2002年10月には介入の機を窺っていたギャネンドラ国王がクーデターを実施、以後直接統治を行った。 2003年3月、再びマオイストとの和平交渉が始まったが失敗に終わる。この停戦期間中にもマオイストは勢力を拡大、現在、4分の3を支配下に置いているとも言われている。 2005年2月1日、国王は2度目のクーデターを実行、マオイストによる治安悪化を理由に内閣を罷免し、自ら新政府を率いることを宣言した。マオイストを徹底的に制圧し、 3年以内に複数政党制民主主義を復活させることを示唆した。

 

民主化運動

クーデター以後は治安部隊が町中に配置され、通信手段は切断、国中が混乱した。集会・デモは禁止され、メディアの放送も規制された。人権を全く無視した国王の統治に、様々な市民グループや人権活動家が抗議行動を起こし、逮捕された。

2005年9月3日、マオイストが一方的に停戦を宣言する。政党とマオイストが手を結んでの国王に対し合同で抗議運動をするため、水面下で交渉が進められていたのだ。そして和平交渉の中で、マオイストは複数政党制民主主義を受け入れる決定をした。マオイストは基本的に毛沢東主義を踏襲しているが、毛沢東主義は共産党による一党独裁制度を方針としている。だが、ネパールのマオイストは、国民に思想の自由と権利を与えることで政府が間違った方向に進んでいないかチェックすることが必要だと考えている。 2005年12月、王室ネパール軍はマオイストに停戦を破棄させるために大規模な掃討作戦を行い、その結果マオイストは三度停戦を破棄して武装闘争を再開する。

2006年3月19日、マオイストと民主化勢力7政党との間で、首都の機能を麻痺させるため、4月3日から9日まで全国ゼネストを行うことが決定。このゼネストは、全国の政治活動家に加えて市民をも巻き込んだ大規模なものとなった。外出禁止令を破って街頭に出てきた市民と警察隊との衝突が日に日に増え、21日にはあらゆる人々が共和制を求めて道路を埋め尽くし、遂にネパール史上最大のデモとなった。7政党は25日に「100万人デモ」を行うと宣言し、デモ隊が一線を越えて王宮に向かう可能性があると国内外から注目されていた。24日、国王は解散されていた下院を復活することを宣言したことにより、要求が受け入れられた7政党は運動の中止を求めたが、マオイストは共和制と制憲議会選挙を要求していた国民への裏切りだとして運動の継続を呼びかけた。

だがマオイストは間もなく停戦を宣言し、新政府と政治解決を目指す方針をとった。復活した下院は王の特権をほとんど剥奪し、ヒンドゥー教国から世俗国家となることが決定した。その後、共産党勢力の台頭を嫌うインドやアメリカによる圧力に阻まれつつも政府とマオイスト間の交渉は進められ、2006年11月21日には8政党による調印式が行われた。2007年6月に実施予定だった制憲議会選挙は、準備の遅れなどから11月に延期。だがマオイストの要求する完全比例代表制と共和宣言等に対し政党間の合意が得られず再延期。12月には第三次暫定憲法改正が行われ、2008年4月10日に制憲議会選挙を実施することが決定された。制憲議会選挙へ向けてマオイストは様々な条件闘争を続けており、下部組織の中には暴力行為を継続しているグループもいる。

 

タライ地方の問題

一連の民主化運動により、新たな動きも生まれている。これまで差別を受けてきたタライ地方の少数民族マデシが、ネパールからの分離・独立を求めて大規模な抗議運動を行っている。彼らはインド系民族で、多民族国家であるネパールの中でも人口の4割強を占めており、その勢力は無視できない。マデシの人々はカーストの低位におかれ、あるいはカーストにすら組み込まれず、シチズンシップ(住民証)を得ることができず長い間差別されてきた。

彼らは2007年1月に交付された暫定憲法にマデシの権利が反映されてないと主張し、しばしば大規模なデモを決行している。2008年2月9日、マデシの主要 3政党が合同戦線を結成し、要求の受け入れを求めてゼネストを決行。インド経由の物資供給が絶たれ、国中の経済活動が大打撃を受ける。タライ地方では治安が悪化を受し、外出禁止令が発令された。政府側の真剣な対応を求めているマデシと政府間交渉に進展はなく、一時は実施が危ぶまれた4月選挙だが、突如マデシ戦線と政府間で合意が成立し、選挙は予定通り行われることとなった。

背後にインドの力も大きく関わっているだろうと考えられるこの問題は選挙への最大の懸念材料であるが、他にも多くの民族を抱えるネパール国内に新たな問題の火種は多く、選挙が実施されたとしても、様々な勢力間の抗争が続く可能性は高い。

 

 

 

 

 

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ネパール制憲議会選挙監視活動報告(首藤信彦)2008年4月
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ネパール制憲議会選挙監視活動報告(阿部和美)2008年4月
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マオイストに関する管見(首藤信彦)2008年4月
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仏陀の生誕地ルンビニ(阿部和美)2008年4月
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